クリエイティブに憧れて

クリエイティブになりたいけどなれない。だけどなりたい人のブログ。

平成最後の夏に「人生の夏休み」を振り返る

今週のお題「#平成最後の夏」

何かにつけて「平成最後の〇〇」という枕詞がつく今日この頃。

「平成最後の花火大会」「平成最後の海開き」そして「平成最後の夏休み」。

過ぎ去っていく時間の一片にすぎなかった夏が、今年は特別な輝きをもって、世間を賑わしているようにも見える。

 

ところで、僕は今年の夏に対して「平成最後の〜」という実感を持たないまま過ごしてきた。

来る日も来る日も同じことを繰り返して、特別何かをするわけでもなく、クーラーの冷気を浴び、CRAFT BOSSとオロナミンCばかり飲み続けて、異常な暑さをやり過ごした。

そうやって毎日を過ごす中で、1つだけ気がついたことがある。

 

もう8月終わるじゃん

 

平成最後の夏、終わるじゃん

 

ということで、さすがにこのままではマズいと思った。

そこで、せめてもの爪あとを残すために、僕が今まで過ごしてきた夏をまとめてみようと思う。

さっそく、タイム・マシーンに乗って、幼少期時代から見てみることにしよう!

 

0歳~5歳

記憶にありません。(幼すぎたのだ)

 

6歳~12歳

 ちょうど「小学生」だったくらいの時期ですかね?

この頃の夏といえば、とにかく楽しかった夏休み、という記憶しかない。

 

1日のスタートは、児童公園で行われるラジオ体操だった。

毎日通ったら、仮面ライダーの文房具などが貰えたりしたので、僕は熱心に通いつめていた。

体操が終わったら1度家に帰り、「夏休み子ども劇場」を観る。スラムダンクとか熱かったなぁ、、、

その後、だいたい昼前くらいに学校のプールに行き、水泳をする。小学生の頃は決まった日数で学校のプールに行くことになっていた。1回参加するごとに、スタンプを1個貰える。こちらも熱心に集めていた。

その後は、友だちの家に遊びに行ったり、逆に自分の家に遊びに来たり。外は暑いから、大抵の場合は室内でアイスクリンをかじりながら、テレビゲームをすることが多かった。「実況パワフルプロ野球」「大乱闘スマッシュブラザーズ」「ポケモンコロシアム」「マリオカート」など、はやっていたゲームを挙げるとキリがない。

 

お盆になると、従兄弟が祖父の実家に遊びにきたので、一緒に遊んだりもした。

その他、家族旅行に行くのもいつもこの時期だった。

だから、8月の中旬になると、「遠出ができる!」ということで、いつもワクワクしていた。

 

家族旅行の時はいつも、父親が運転する車に家族全員で乗り込んだ。

車のBGMはいつも、サザンオールスターズ

今でも、サザンの音楽を聴くと、このときの記憶がよみがえる。

「楽しいことが待っている!」という期待感。車内に広がるエアコンの匂い。そして自分が子どもだった頃の、両親の姿。

弾けるような夏の日の象徴だったサザンオールスターズ。いつしかそれは、懐かしさと寂しさの象徴に変わっていた。


サザンオールスターズ - 彩~Aja~

 

12~15歳

中学に上がり部活に入ってからは、夏休みは毎日部活漬けだった。

僕はバレーボール部に入り、日中はひたすらボールを追いかけた。

バレーボールは、いかにボールをコートに落とさないかを競うスポーツだ。体育館の床に身体を擦り付けながら、なんとかボールの下に潜り込む。

窓から漏れる日差しと体育館にこもった熱気のせいで、コートの床面はアスファルトのような熱を保っている。ラインすれすれに落下しそうなボールを追って、胸、腹の順番で身体を滑らせると、T-シャツに付着した汗がコート上にへばりつく。しかし次の瞬間には、散らばった汗は蒸発してほとんどなくなっている。バレーボールシューズで残った水気を薄く伸ばすと、掛け声とともに次のプレーに向かった。

10代の肉体は日々、進化していった。1プレーごとの身のこなしが、どんどん軽やかになっていく。演奏者のようにリズミカルに運動する身体。昨日より今日、今日よりも明日と、できることが増えていった。コート内を駆ける瞬間、自分が世界中で一番なのだ、と信じて疑わなかった。

 

練習が終わったあとは決まって、校門前にある自販機でキリンレモンを買って飲んだ。売り切れの日は復刻堂のフルーツオレ。

この2つの味は、今でもなかなか忘れられない。最近だと、すこし背伸びをしたオシャレなバーで、いくつもの色を反射しているカルテルなんかを飲んだりもする。大人になると、これが美味くなるんだよな、とマスターは言った。だけど僕にとっては、すこし日が沈みかけた帰り道に飲むキリンレモンが今でも一番だ。いつまでたっても、僕は大人になれないのだろう。

 

それともう1つ。印象的なものとして残っているのは「風の匂い」だ。

平日だと、部活が終わって家に帰るのは19時過ぎになる。住宅街を抜ける通学路では、夕食の匂いやシーブリーズの匂い、校舎の隣にある雑木林から発せられる葉っぱの匂いがブレンドされて、鼻腔を刺激してくる。

周りの空気は少しひんやりしていて心地よい。いつまでも、夜風に身を任せていたい気持ちになる。「今日、クラスの気になる女の子と話せたんだ」そんなことばかり考えている帰り道。期待と高揚、そしてセンチメンタルが入り混じったこの時代の感情は、夏の終わりの空気感、夜風に乗ってやってくる匂いとともに、時たま思い出される。


フジファブリック 若者のすべて

 

15~18歳

 大人になるって、なんだろう。

いったい自分は何のために生きているんだろう。

高校の頃は、このようなことばかり考えていた気がする。

布団に寝転がりながら、少し黄ばんだ天井を眺める。

何もない部屋にいる、何もない自分。最強だと思っていた自分が、実は何者になれないちっぽけな存在であるということに向き合わされた。

 

無意識のうちに進んでいった時間は突然、均等性を失ったように宙ぶらりんになった。毎日無我夢中に生きて、一瞬のうちに過ぎ去っていった時間が、過ぎ去らなくなった。やるべきこと、やりたいことが何も見つからなかった。

「オレは毎日何をしていたんだっけ」そんなことを考えて、入れたくもない予定を入れたりして、とにかく外に出る。時間の空白を埋める感覚。ずっと家の中にいると、気が狂ってしまいそうだった。

 

やりたいことが見つからない割に、野心だけは一人前だった。

とにかく、何者かになりたい。

他人が持たない何かを手に入れたい。

願望と現実とのギャップが摩擦を起こし、すり傷だらけの日々の中で毎日を生きていた。

焦る気持ちばかりが先に進んで、実際には何も手につけることができなかった。

高校時代の夏は、葛藤を抱きながら、自分を縛るくさびを振り払うかのように全力でママチャリを漕ぐシーンしか思い浮かばない。


22才の夏休み  PV 神聖かまってちゃん

 

18歳~

すみません、高校の頃の話だけ、夏休みではなかったですね。

高校の頃は、自分自身の内面世界に必死で、夏を楽しむ余裕などなかったのです。

切り替えて、18歳~の夏休み。

 

大学時代の夏は、固有名詞の付けられる毎日しか過ごしていなかった。

アルバイト。夏祭り。花火。キャンプ。サークルの合宿。旅行。デート。

適当に、ヘラヘラしながらそれらのイベントを消化していった。

後に何が残ったのか、と言われれば、何も残らなかったとしか言いようがない。

だけど、人生の中でそんな時間も必要なんじゃないかなぁ、と思うわけです。

 

今振り返ってみても、割と充実した日々を過ごしていたのではないか、と思う。

だけど、この時代に選定すべきテーマソングが、見つからない。

見ていた景色、感動した出来事が、思い出せない。

どういう気持ちで生活していたのか、まったく思い浮かばない。

直近の出来事だから、という事情もあるだろう。

現に僕は、大学を卒業してまだ1年しか経っていない。

だけど、もしそれ以外の理由が原因だとしたら。

僕はこれから、何の色もつかないような人生を過ごしていくしかないのだろうか。

そう思うと、どうにもやり切れない気持ちになるのだ。

 

そう思いながら、今年の夏は毎日同じオフィスに通い、すでにルーティーンと化した業務をこなしてきた。

仕事にも慣れてきたが、やはり気が張っているのか、毎日の疲れはなかなか抜けてくれない。

ある日の帰り道。

時刻は夜の19時を少し過ぎたくらい。最寄駅の改札を抜けて、出口から覗く夜空をぼんやりとした気持ちで眺めていた。

夕焼けと夜の中間くらいの空は、明るいような暗いような、名前のつけられない色をしていた。出口付近で歩を緩めた僕の後ろを、何人かのサラリーマンが息もせずに通り過ぎていく。重い足を引きずりながら階段を登りきると、やがて天井が抜け、視界が一気に開けた。

その瞬間だった。

目の前に広がるのは、オレンジとピンクと紫をグラデーションしたような、見たこともない夜空だった。

眩しくて、思わず目を閉じた。恐る恐る瞼を上げると、やはり同じ景色が確かに存在していた。

 

目を閉じても忘れられない景色に出会ったのは、ずいぶん久しぶりだった気がする。

「今の生活も捨てたもんじゃないな」

不思議とそう思えた。理由は分からない。だけど、実感をもってそう思えたのも、夢中に過ごしていた子供の頃以来だった。

根拠はないが、これからもっと、面白くなりそうだ。

そう思えたのは他でもない、平成最後の夏だった。

 

 

 

なぜだか分からないけどオシャレな人シリーズ「初回」


小沢健二 - ぼくらが旅に出る理由(Single Edit)

 

なぜだか分からないけどオシャレな人

なぜだか分からないけどオシャレな人って、周りにいませんか?

特別美人だ、特別美男子だ、というワケではない。

でも、なんだかオシャレなんだよなーっていう人。

 

僕の周りにはいるんです、結構。

(ちなみに、僕が思うオシャレNo.1ということで、小沢健二さんの動画をアップしています)

 

そして、そういう人に限って、自分よりも有意義に人生を送っている気がする。

 

僕もオシャレに生きたい

彼ら・彼女らは「1秒1秒を有意義に生きている」気がするんですよね。

地べたで寝っ転がっているばかりの僕を横目に、飄々と、人生を歩んでいっている気がする。

最初は、すべて気のせいだと思っていたんです。

彼らが優れて見えるのは、きっと僕の妬みに似た歪んだ感情が原因だと。

 

だけど、時が経つにつれて、その思いは変わってきました。

オシャレに見える人は間違いなく、人生を有意義に生きている。

なぜなら、僕の目に映る彼ら・彼女らは例外なく「楽しそう」だからです。

自分に与えられた人生、あるいは自分自身で勝ち取った人生を、十二分に満喫しているように見えるからです。

 

「オシャレに見える人」の共通項を探す

上の例だと「楽しそう」というのが1つの共通項でした。

そしてこのように、オシャレに見える人を深く分析していくと、より多くの「共通項」が見つかるはずだ。

これが、本連載の目的でもあります。

 

自分もオシャレに生きたい。

ではどうすれば良いのか?

周りにいるオシャレな人の真似をする、というのも1つの手でしょう。

だけど、残念ながら上手くいかないケースが多い。

どうしてかというと、答えは簡単。「その人はあくまで他人だから」です。

 

背丈や顔かたち、性格、趣味、能力値まですべて異なる人をそっくりそのまま真似しても、上手くいくはずがありません。

その人にはその人なりの個性や得意分野があって、そこを生かさない限りは魅力的になれませんよね。

だから、「共通項1つ」だけを真似しても、オシャレにはなれません。

 

共通項を「増やす」という発想

ところが「複数の共通項」を見つけられた場合は、話が違ってきます。

「数ある共通項」の中から、自分にあったモノを探してみる。

自分に似たタイプのオシャレな人、オシャレなタイプを探し、それを取り入れてみる。

すると、オシャレになれる確率はグッと高くなると思いませんか?

 

本連載では、このことを目的としています。

つまり、出来るだけ多くの「オシャレな人の共通項」を提示するということ。

すると、自分の生活に取り入れたい事例も見つかりやすくなるでしょう。

「いいな」と思う項目があったら、どんどん真似してほしいと思います。

そうやって、自分の人生に反映していただきたい。

オシャレに軽やかに自分らしく」生きるということ。

それだけで、人生はずっと生きやすくなると思うからです!

 

次回から、「なぜだか分からないけどオシャレな人」の共通項を考えることで、彼ら・彼女らのヒミツに迫っていきたいと思います!

とにかく面白かった「カメラを止めるな」(ネタバレできない)

大ヒット中の映画「カメラを止めるな」を観てきました。

15:50~上映のお昼の部で、館内はほとんど満席。

注目度の高さがうかがい知れます。

客層ですが、カップルで来ている人、友人同士で来ている人、様々でした。

(ちなみに僕も、彼女と観に来ていました)

しかし、1人で来ている方が多かったのも特徴的でしたね。

あまりの面白さに、リピート通いしている人も多いのでしょうか?

ますます期待が膨らみます!

 

映画上映!ネタバレできないくらい面白い

とても楽しみにしていたので、上映前のコマーシャルの時間がやけに長く感じました。

僕自身、映画館でのコマーシャルの時間は大好きで(劇場のボルテージが次第に高まっていく瞬間がたまらない)何ならあの時間こそ映画館の醍醐味だと思っているのですが、

今回ばかりは「早く本編が見たい!」とそわそわしていました。

 

そしてついに、映画が上映されます。

 *

 *

 *

まず、結論から言うと、もうメチャクチャに面白かった。

今まで結構な数の映画を見てきたのですが、間違いなくトップクラスに面白かったです。

映画館で声を出して大笑いしたのは、ほんとうに久しぶりでした。

しかも、笑っているのは僕だけじゃなくて、会場全体に笑いが連鎖している状況。

ラスト30分くらいはもうヤバイです。

 

だからこそ、とも言えるのでしょうが、今回ばかりはネタバレできないのです、、、

ネタバレせずに、観ていただきたい。

何の予備知識も入れずに、まっさらアタマで映画に身を委ねてほしい。

おそらくそれが、この映画を楽しむための最大のポイントだからです!

 

少しだけ、映画の内容について触れると、この映画はホラー映画と言われていますが、純粋なホラー映画ではありません。

(それは、本編を観ていただければ分かるかと思います)

ホラー的な描写があるだけで、ホラー映画ではないのです!

(よく分からない書き方ですみません、、、)

僕自身、ホラー作品は苦手ですが、この作品は問題なく楽しむことができました。

ホラー作品独特の「心が寒くなる感じ」は一切ありません。

むしろ、ラストシーンでは「心がじんわりと温まる」といった、おおよそホラー映画に似つかわしくない感情になると思います。

(とにかく本編を観て!)

 

映画を観て思ったこと

 1番に「制作者の熱意」を感じました。

それは、上田慎一郎監督はもちろんのこと、出演俳優やその他制作スタッフまで、作り手全員の「良い作品を作りたい」という熱意です。

お金がなくても、良い作品を作りたい。

有名でなくても、良い作品を作りたい。

映画に関わった人々全員の、ほとばしるような熱狂が、観ている側の僕らにもビリビリと伝わってきました。

 

熱意、というのはある意味「執念」に近いかもしれません。

自分たちの手で、とてつもない世界を作り上げたいという執念、実感。

僕には、それが心底羨ましい。

それは僕が、それほどまでに入れ込める表現の場に出会えていないからです。

 

羨ましいと思う反面、作品を通じて強い「勇気」をもらうことができました。

熱狂して何かを作りたい、という勇気。

誰かのためになるモノを作りたい、という勇気。

明日を生きる勇気。

 力強く、一歩を踏み出す勇気。スクリーンに映る彼らに、強く背中を押された気がしました。

明日からまた、突っ走っていきたいと思います!

流動体という平行世界【小沢健二「流動体について」】


小沢健二 - 「流動体について」MV

平行世界について思いを馳せる

もしも 間違いに気がつくことがなかったのなら 

 この曲を頻繁に聴いていた去年の冬、僕はいわゆる「人生の転機」を迎えていた。

 詳しくは割愛するが、冬になっても、来年度の進路が決まっていなかった。

どこにも行く場所がなかったのだ。

 

その頃、学校からの帰り道ではいつもこの曲を聴いていた。

寒さがしんと張り詰めた冬の夕暮れどき。グラウンド脇の道を歩きながら、人生に翻弄される主人公に思いを馳せていた。

もしも 間違いに気がつくことがなかったのなら

平行する世界の僕は

どこらへんで暮らしているのかな

広げた地下鉄の地図を隅まで見てみるけど 

 


小沢健二 - 春にして君を想う

小沢健二の平行世界

シングル『春にして君を想う』をリリースした後、小沢健二は突如として、表舞台から姿を消す。

それはちょうど、時代が20世紀から21世紀に向かう境目の時期でもあった。

渋谷系の王子様』と称された彼は、すべてを残してNYへと飛び去ったのだ。

 

小沢健二は何を思って、日本を離れたのだろうか?

何を思い、何を考えて、築き上げた自分のキャリアを捨て去ったのだろうか?

 1ミリの未練も後悔もなく、新しい生活を受け入れられたのだろうか?

君は少し化粧をして

僕のために泣くのだろうな

そんなことがたまらないのだ

静かなタンゴのように 

 


小沢健二 - ぼくらが旅に出る理由(Single Edit)

旅に出ない人生なんてない

遠くから届く宇宙の光 街中でつづいてく暮らし

ぼくらの住むこの世界では旅に出る理由があり

誰もみな手をふってはしばし別れる 

 もしも小沢健二が活動を続けていたら。

そのような議論が交わされることもあったし、彼自身、歌い続ける平行世界の自分を想像したりもしただろう。

平行世界にいる自分。それはしかし、当たり前の存在なのかもしれない。

僕らはいつか、旅に出る。

そのとき、もう1人の自分に手を振って、別れを告げる。その瞬間、まったく新しい別の人生が始まるのだ。

 

2014年3月、「笑っていいとも」に出演した彼は、少しの照れ笑いを浮かべながら僕らの前に戻ってきた。

彼の表情には、「自分の人生をすべて受け入れた」者特有の強さと安らぎが宿っているようにも見えた。

もちろん、後悔はあるだろう。

平行する世界の僕について、考えを巡らせることもあるかもしれない。

だけど、選んだ道を正解にできるのは、他でもない自分自身なのだ。

小沢健二が贈るメッセージを握り締めながら、一歩一歩、自分の道を歩んでいきたいと思う。

 

ユーミンの時代に生まれたかった


松任谷由実 DESTINY

 

この昭和感がたまらない。

僕が生まれた時代は平成で、だから昭和の時代のことは知らない。

だけど、なぜか感じる昭和感。

昭和感といっても、古臭いといった話ではない。

たぶんこの曲が世に出た当時は、世間は進歩と発展の真っ只中だったのだろう。

 

古いモノが置き換わり、新しくなっていく社会。

その中で駆け抜けていく身体感覚。

自分が社会の中心、世代の中心を担っているという実感を持った青年時代。

ポケベル片手に、仕事終わりのガールフレンドを迎えに行く。

発展と途上が入り混じった都市を横目に走り抜ける首都高速

「今日はレイト・ショーを観に行こう」

「疲れたからレンタル・ビデオにしようよ」

そう言って、側道沿いのTSUTAYAに寄りたかった。

 


Arai Yumi- 中央フリーウェイ

 

スマートフォンじゃなくて、窓ガラスから見える景色を見ている時代

少し険悪な雰囲気のカップル。車内で2人。

些細なコトで口喧嘩になった。お互い、意固地になって言葉を発さない。

ため息とタバコの煙だけが居場所を失ったかのように車内に浮かぶ。

 

そんなとき、夜空を流れる一筋の流れ星が見えた。

「ねえ、今の見た。流れ星!」

「流れ星なんてあるわけないだろ」

「ほんとうよ!確かに見たんだもん」

もう一度、今度ははっきりと夜空が輝く。

「本当だ、流れ星だ」

「見て!右に見える競馬場、去年行ったところだよね!」

「懐かしいな」

 

今みたいにスマートフォンがない時代。

喧嘩の打開口はいつも、無限に広がるこの世界だけだ。

 


松任谷由実 やさしさに包まれたなら

 

大衆で観る映画。大衆で観るライブ。大衆で聴く音楽。

時代は個人的な方向へどんどん進んでいる。

スマートフォン片手に、人々は細分化されたジャンルから、自分の好きなコンテンツを選んで視聴する。

もはや、隣にいる人が好きなモノも分からない時代だ。

個性的。個であることの主張。

その裏にある寂しさを紛らわすために、僕はユーミンを聴くのかもしれない。

 

オトナ帝国の逆襲〜人生の積み重ねが、生きる希望になる〜

劇場版クレヨンしんちゃんの中でも、名作として高く評価されている『オトナ帝国の逆襲』。

今回はこちらについて、作品が内包するメッセージを紐解いていきましょう。

 

ストーリーが暗示する葛藤

作品は、20世紀博によって開かれた万博のシーンから始まります。(これは、1970年に開催された日本万国博覧会がモデルとされています。)

万博では、大人たちが昔を懐かしむ仕掛けが数多くなされており、彼らを虜にしていきます。

やがて、『匂い』によって洗脳された大人たちは子供を置き去りにし、オトナ帝国を形成します。

そしてしんのすけ達は、両親を現実世界に連れ戻すために奮闘する。

このストーリーが提示しているのは、大人達が抱く、対立する2つの感情と、その狭間にある葛藤です。

作中序盤で描かれる、子供時代を愛しく思う感情。

一方で、作中後半からは、積み重ねた日々によって生じる日常や未来を大切に思う感情が色濃く描かれています。

2つの間で揺れ動く大人達の心情を、ストーリーという形で見事に表現しているのです。

 

昔を懐かしむ気持ちは、子供時代に対する憧れから生まれる

上記の2つについて、個別に見ていきましょう。

まず、昔を懐かしむ心情から。

これは、序盤の万博でのシーンや、アナログで溢れる街並み、それに憧れる大人達、という形で描かれています。

日本万国博覧会を下書きにしているということもあり、高度経済成長時のコンテンツが多く描かれている、というのも特徴的です。

ところが、高度経済成長時を知らない僕のような世代でも、これらのシーンから昔を懐かしむ感情が誘発されます。

これは、単に懐かしいコンテンツを描いているだけでなく、そのベクトルを子供時代に向けているからだと考えられます。

たとえば僕は、1996年生まれだから、高度経済成長時のコンテンツに対して直接的には懐かしさを感じない。

だけど、子供時代を懐かしむ大人達の姿を見て、自分の幼少期を懐かしいと感じる心情が誘発されるのです。

子供時代というのは、自由なものです。

誰にも邪魔されず、好奇心の赴くまま、自分のやりたいことができる。

社会的体裁や世間といったことを考える必要がなく、毎日楽しむことだけを考えれば良い。

親を亡くしている人にとっては、無償の愛情を傾けてくれる両親の存在も、子供時代への憧れに起因しているといえるでしょう。

 

屈指の名シーンが伝えるメッセージとは

子供時代への憧れが肥大化することで、劇中の大人達は幼児退行し、閉ざされた世界へ連れ去られてしまいます。

その世界では時間は止まり、永遠の20世紀が具現化されています。

『進歩を止めた世界』というのも、いずれ考察したいテーマではあるのですが、ここでは次に進んで、思い出、という概念について考えていきましょう。

さて、作中後半では、子供達(かすかべ防衛隊)が、大人達を現実に連れ戻すために奮闘します。

大人達が『昔を懐かしむ存在』として描かれているのに対し、子供達は『未来を夢見る象徴』として描かれていますね。

懐かしいという感情が分からない子供達は、未来への希望を武器に、イエスタディ・ワンスモア(20世紀博を作り出した集団)に戦いを挑みます。

過去への羨望か、未来への希望か。

この戦いに終止符を打ったのは、大人達が潜在的に抱く『思い出』でした。

これは、クレヨンしんちゃん史上、屈指の名場面である『ひろしの回想シーン』を通して描かれています。

https://youtu.be/RB71guGMoIY

何不自由なく、両親の愛情を受けて育った子供時代。

そこから成長していくにつれて、様々な出来事や出会いに遭遇します。

それらは楽しいことばかりではなく、辛く苦しい経験ももちろんあるでしょう。

だけど、それがあるからこそ、様々な出来事が思い出として、1人の人間に蓄積されていきます。

思い出は、過去に閉じこもるだけでは決して得ることのできない、光り輝く宝物です。

そして、思い出の先に現在の生活があり、日常がある。ひろしの場合は、『家族』こそ、思い出の先にある日常だったのです。

 

作品を通して描かれたメッセージ

現実は楽しいことばかりではない。

時には目を覆いたくなるような、辛い出来事だって起こります。

そうした時、子供時代を羨ましく思う気持ちは、誰にだってあると思います。

だけど、過去の積み重ねなくして、現在の生活はないのです。

苦しい経験があってこそ、喜ばしい出来事は一生の思い出として、光り輝きます。

そうした思い出の先にある日常は、かけがえのないものだ。

この作品からは、上のようなメッセージが感じられます。

言の葉の庭 〜孤独な2人が交わる世界〜

映画『言の葉の庭』は、映画監督である新海誠監督が原作から手掛けたアニメーション作品です。

本編は40分と短いですが、それ以上に感じさせる内容の深さがあります。

さっそく、『言の葉の庭』のストーリーについて見ていきましょう!

 

メインの登場人物は2人

言の葉の庭』に登場する人物は2人。

高校生の秋月孝雄と、その高校で古文の教師を務める雪野百香里。

ただし、2人は同じ高校の教師と生徒という関係性でありながら、面識はありません。

そんな2人ですが、『雨』というキーワードによって、出会い、お互いを知っていきます。

 

孝雄と雪野の共通点

お互い面識のない2人ですが、ストーリーが進行していくうちに、ある共通点が見えてきます。

それは、今ある現実を直視していない、言い換えれば、現実を受け入れていない、という点です。

孝雄は、家庭環境の影響もあってか、周囲より大人びた人物として描かれています。(そもそも、劇中で1人語りをされるためには、ある程度の大人びた感情が必要ですが)

孝雄は、高校生活をひどく子供じみた場所だと卑下している。そして、靴職人になって靴を作る、という夢を抱くことで、現実から抜け出して、違う世界に行くことに憧れています。

孝雄は、大人にならなければならないと焦っているのです。

一方、教師である雪野も、現実から目を背けて公園でお酒を飲んでいます。

雪野の場合は、辛い現実に耐えられなくなった結果、自分を失い、現実から1人宙に浮いた状態になってしまった。

『私、まだ大丈夫かな?』という劇中のセリフが印象的なように、居場所を失い、壊れてしまう一歩手前を彷徨っているのです。

『現実を受け入れられていない』という2人の心情は、見る側を惹きつける1つのポイントとなっています。

多くの人は、多かれ少なかれ、現実に不満を抱いていると思います。

そうした心情、日々のストレスを、2人に重ね合わせて見ることができるからです。

さて、『現実を受け入れていない』2人ですが、『雨』という自然現象によって出会い、心を寄せていくこととなります。

 

『雨』というキーワードによって生まれる作品的魅力

孝雄は、雨の日の午前中は学校を休む、というルールのもと、公園に足を運びます。

『雨』というキーワードが、雪野と孝雄を出会わせるのです。

ここが、新海監督のさすがといえる点というか、秀逸だと思うシチュエーションでもあります。

ストーリーを進行させるためには、主人公とキーパーソンを、何かのキッカケに出会わせる必要があります。

話が始まってから、誰とも出会わず自己完結するような話は、滅多に存在しませんよね。

誰かと出会い、心情や状態に変化を生じさせる。それが、ストーリーコンテンツの醍醐味でもあります。

そして、この『出会う』という出来事にどれだけ気を遣えるか、というのも、その作品を左右する重要な要素です。

ここが月並みだと、作品全体が一気にツマラナイものになってしまう。

その点、『言の葉の庭』では、出会いのキッカケを『雨』にすることで、さまざまな効果を生み出しています。

まず、『雨』を表現する美しい描写。(ここでは、映画的な描写のことを指します)

本作の魅力となっている美しい描写も、『雨』を主題に持ってきてこそ成立するものです。

また、『雨』というのは本来、人の心を沈ませるものですが、孝雄と雪野は『雨』が降ると妙に明るくなる。

この、逆説的な2人の心情が、現実から抜け出した2人だけの世界、を表現するのに一役買っています。

 

2人だけの世界で心を寄せ合う

新宿御苑が2人だけの世界を形作っている点にも注目です。

2人は現実を離れ、その世界のひと時で心を寄せ合っていきます。

それぞれ現実があり、2人だけの世界がある。

共通項によって、2人の距離を表現しているのです。

また、この共通項を梅雨の時期に重ね合わせることで、ストーリーの起伏を巧みに生み出しています。

 

全体的なストーリーの流れ

出会い、親睦、決別があり、最後には2人の心が一致する。

ストーリーの流れとしては、比較的オーソドックスであるといえるでしょう。

2人の心の動きに着目すると、まず、出会ってからは順調にお互い惹かれあっていきます。

ところが、幸せだった2人の時間は、梅雨の終わりによって引き裂かれてしまいます。

孝雄は、雨という動機を失い公園に行きあぐねている。

一方、雪野は孤独と葛藤の夏を過ごす。

お互い、雨を願い会うことを願っているのですが、一夏を経てすれ違いが生じてしまいます。

そして、怒涛のラストシーン。

2人ははじめて、自分の心をさらけ出し、抱擁という形で一致するのです。

 

感想

男女の恋愛を描いていますが、その感情を最後まで直接的に描かないことが、この作品の特徴です。

近づいては離れる2人の心が、映画音楽も相まって、切なく描かれています。

しかし、最後にはハッピーエンドで終わることから、爽やかな後味を残しています。

作中に直接的な表現や、目に見える関係性の変化を描かなくても、男女の触れ合いを描ける点が、ストーリーを作る上で参考になります。